ホンダ、ワシントンDC事務所での葛藤(戦略コミュニケーションの温故知新* 第5回)

1983年10月にホンダの米国ワシントンDC事務所に赴任した。当時のワシントン事務所の陣容は6人。
日本人の所長1名、米国人のマネージャー1名、米国人アシスタント・マネージャー1名、そして米国人スタッフ3名、合計6名である。そこに自分が加わり、7名体制となる。

国籍でいうと日本人2名、米国人5名であるが、男女比で見ると、日本人以外はすべて女性である。

直属の上司は事務所長である飯塚さんという方で、ワシントンに来られる前は、本社の北米営業部長、その前はドイツ・ホンダ社長を歴任、元々は伊藤忠商事の出身である。当時、ホンダで英語の達人ベスト3の1人に数えられていた人である。

着任早々、マネージャーであるトニー・ハリングトン女史からオリエンテーションを受ける。彼女とは直接の上下関係はない。タイトルで言えば、彼女はManager、こちらはAssistant to Senior Vice President(SVP)といった曖昧な位置づけである。

当時の米国ホンダには社長のほかに7~8人ほどの日本人SVPが存在、四輪販売、二輪販売、汎用販売、研究開発、総務人事など各部門を統括、それぞれに日本人のAssistant to SVPがつく。自分の場合も政府交渉などのロビイングとPublic Relations(PR)部門の立ち上げを統括する飯塚事務所長に直接つくといった立場である。

一種の“黒子”の役割を期待されている。米国人からすると少々煙たい存在でもある。正式な組織図に入らない立場なので、権限や役割があまり明確になっていない。それでも日本人であるため、米国内の日本人同士のコミュニケーション、日本本社とのコミュニケーションをはかる上で重要な役割を担うポストでもある。

この2重構造という一見指揮系統に曖昧さを残した組織形態が、結果として80年代の日米通商自動車摩擦とホンダが戦う上で威力を発揮することになる。

いずれにせよ、この2重構造を彼女も心得ている。自分の仕事にこの若い日本人をどこで役立たせるか、慎重に品定めをしている。さすがにワシントンではそれなりに名を馳せたロビイストらしく、机がいっぱいになるほどの書類を持ち込まれ、延々と説明が始まった。

正直、まったくわからない。ロビイング自体何をやるのか、皆目検討がつかない。どえらい所に来てしまったというのが率直な気持ちだった。

*「戦略コミュニケーションの温故知新」。このシリーズでは一度、原点回帰という意味で私のコミュニケーションの系譜を振り返り、整理し、そこから新たな発想を得ることが狙いです。コミュニケーションの妙なるところが伝えられれば幸いだと考えます。(前回はこちらから)

~~~~~~~~~~~~~~~筆者経歴~~~~~~~~~~~~~~~~~

田中 慎一
フライシュマン・ヒラード・ジャパン 代表取締役社長

1978年、本田技研工業入社。
83年よりワシントンDCに駐在、米国における政府議会対策、マスコミ対策を担当。1994年~97年にかけ、セガ・エンタープライズの海外事業展開を担当。1997年にフライシュマン・ヒラードに参画し日本オフィスを立ち上げ、代表取締役に就任。日本の戦略コミュニケーション・コンサルタントの第一人者。近著に「オバマ戦略のカラクリ」「破壊者の流儀 不確かな社会を生き抜く”したたかさ”を学ぶ 」(共にアスキー新書)がある。

☆twitterアカウント:@ShinTanaka