信長の破壊の流儀 - 第12回 信長、家臣団の意識と戦う

その中で、信長がいち早く、戦国大名が持つこの支配の脆弱性を克服、天下布武という自らのビジョン実現に向けて家臣団を動かした。

1567年9月に信長は美濃の斎藤氏が居城とする稲葉山城を落城させ、美濃攻略を果す。その翌年8月には、足利義昭を奉じた上洛軍を編成、4万の軍勢を統率し、わずか1カ月あまりで入京を実現させる。そして、その後は四面の敵に臨機応変に信長軍を展開、天下布武への道筋をつける。信長は既にこの時点で、他の戦国大名とは異なった“集権”、あるいはトップ・ダウンという支配関係を家臣団との間に確立していた。

信長は天下布武というビジョン実現のために、家臣団の意識変革に成功したことを意味する。

これは、他の戦国大名にはできなかったことであった。家臣団の頑強な意識の抵抗をものともせず、信長は突き進む。信長は家臣団への支配力を強めるため、家臣団をそれぞれの領地から切り離し、知行地制を導入、代官を置くことによって土地への直轄支配を推し進め、兵農分離を促進した。

また、家臣に領地を褒賞として与えることを極力避けた。これは領地を直接与えることは家臣団の独立性を強め、組織内の分権化を内包するからである。土地を媒介として主従関係が成り立っていた中世社会の中においては、画期的な試みである。

信長は、ある程度、天下統一の事業が軌道に乗ってから、初めて柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益などの主な部将に領地を与えている。しかも、頻繁に家臣間の領地替えを行い、家臣が土地に居つくことを嫌った。

この領地替えという手法は後に秀吉、家康も採用している。また、土地を与える代わりに信長は、家臣の働きに対しては、銭、金棒、茶器などの新しい価値形態で報い、一方、それらの価値形態の供給を独占することにより、家臣団に対する支配力の強化を図った。

信長の土地支配に対する考え方の延長線上には最終的には全国の土地を中央集権的に掌握、中央から任命された官吏によって支配する郡県制的なものを彷彿させる。
信長が本能寺で倒れなければ、天下布武の過程で、毛利、島津、上杉、伊達、長宗我部などの大大名の存在は許さなかったのではないかと想像される。

信長は安土城を築いた際、城内に家臣団の屋敷を造り、常駐させた。家臣ではない同盟者であった徳川家康の屋敷も城内にあったと言われる。家臣団を城下に常駐させることは、家臣団を土地から切り離すだけではなく、その家族を人質化することにより、より家臣団への支配力を強める。

城下に家臣団の家族を住まわせ、人質にする政策を初めに打ち出したのは、朝倉家当主、朝倉故意と言われている。1470年に作られた、その家訓「朝倉敏景十七箇条」において「一乗谷の朝倉館のほかは決して城郭を構えさせてはならない。また高禄の家臣はことごとく一乗谷に引っ越させ、その郷、その村にはただ代官と下役人のみを置け」との記述がある。

信長は、この仕掛けを大規模なシステムとして導入、主な家臣の屋敷を城内に造り、常駐させ、有力家臣団への直接支配を本格的に実施した。

信長が美濃を攻略する前、後に秀吉の軍師となった竹中半兵衛が斎藤龍興の居城である稲葉山城をわずかな手勢で攻略することに成功したことがある。これは、竹中半兵衛の機略によるところも大きいが、実際のところは難攻不落と言われた天下の名城、稲葉山城でさえも常駐していた家臣は少なく、直属の配下のみであったことを示している。

秀吉も同様に、諸大名の屋敷を大坂に建てさせた。家康はこれをより制度化し、参勤交代という仕組みを導入する。いずれにせよ、その目的は有力家臣、大名諸侯に対する直接支配の強化である。それは、単に武力による“強制”や“恐怖”だけでは達成できない。前にも述べたが、“強制”や“武力”だけでは周りの人間の意識がもたない。

本能寺を待たずに、とっくに信長は殺されている。人の意識に働きかける創意工夫を通じてのみ、絶えざる“破壊”と“創造”を繰り返すことができる。信長の天下布武の実現の背景には、人々の意識に働きかける創意工夫の一大プロセスが存在する。

信長の破壊の流儀 - 第11回 “集権”をすることは自殺行為

信長が掲げた天下布武には信長による直接支配、直接統治という意味合いが色濃く含まれている。当時の戦国大名諸侯が一般的に描いていた、あるいは想像していた天下統一とは、自らの手で上洛、足利幕府を再興、幕府の最高実力者として大名諸侯の連合体の上に君臨するといったものであった。

上洛を試みた今川義元、武田信玄なども上洛後の政体を同様に考えていたものと想像される。

信長の描く「天下布武」には大名諸侯の連合体のような政体はまったく含まれていない。信長の統治に対する考え方はすべてトップダウンを起点とする。“集権”を通じて、如何に直接支配の範囲を広げるか、直接統治を強化するかであった。

前述したように戦国大名とは武家領主による一揆と言える。守護からの支配に対抗し、自立的な領国経営を可能にするための組織である。この組織の上に、最も有力な者が戦国大名として君臨する。

信長の父である信秀などは典型的な例である。尾張守護代織田家の一奉行でしかなかった信秀は、この一揆という組織形態を巧みに利用、尾張における「触れ頭」的存在として君臨、戦国大名化していく。

確かに、従来の守護による領国経営のあり方と違い、1つの目的を共有する組織形態である一揆は、構成員の利害関係が一致する限り、強力な組織力を発揮する。多くの戦国大名が強力な軍事組織を確立、領国経営のための優れた民政政策を数多く実施してきたことを見れば、従来の守護大名の比ではない。

しかしながら、戦国大名と家臣団との支配関係は一揆の特徴である契約的要素が色濃く存在するため、大名自身の指導力、統率力という面でその脆弱性は否めなかった。

戦国大名の代表格である武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康、伊達政宗などは、この支配の脆弱性に起因する領国経営の問題に常に苦労している。また、戦国大名間の戦いは往々にして、それぞれの家臣団を形成する国人層の利害と思惑が交差したものを原因としており、戦国大名自身の意志で起すというケースは少なく、家臣団である国人層が戦国大名達を戦いに駆り立てていたというのが実情である。

このような状況の中で、“集権”をすることは自殺行為に等しい。権力基盤の崩壊を意味する。それほど、戦国時代100年を通じて、一揆というしくみを通じて、分権と自立になれた、大名、豪族、国人層、仏教集団、更には家臣からの“集権”に対する拒否反応は並たいていのものではなかった。

次回はではどうやって家臣の意識を変えたのかという部分について語ってみる。