3 月2010
シリーズ最終回は今まで幾度も書いてきたことだが、信長のなし得た人の意識の変革について改めて語り、しめくくりとしたい。
織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。天下統一の実現の途上半ばで、信長は倒れたが、天下統一の道筋はしっかりと作ることに成功したと言える。
信長は、中世から近世を飛び越して近代まで持っていく程の勢いであったが、信長が発想した新たな“革新”の方向性は、その後、穏便ながらも後継者である豊臣秀吉と徳川家康に引き継がれ、江戸時代約300年という世界史上でも珍しい天下泰平の世を実現させる。
秀吉や家康は、信長ほどに大胆ではなかったが、これらの信長が発想した様々な“革新”の考え方をより精緻化し、大規模に展開した。それによって、中世に幕を引き、日本社会は近世へ足を踏み入れることになった。
信長の最大の功績は中世の意識を“破壊”、近世の意識を“革新”したことである。変化を嫌う人々の意識を徹底的に“破壊”した。その上に秀吉も家康も新しい意識を積み上げることができた。
信長は日本史上、限られた時間で、最も多くの人々に意識を変えたリーダーである。
2010 年 3 月 23 日 10:10 PM |
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信長は、家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」に変革した。
鎌倉、室町期の武士は「土地」への執着が強かった。もともと武士の発祥は土地の開拓開墾者である。彼らは自らが開拓、開墾した「土地」を懸命に守ることを本領とする。「一所懸命」である。そして、その「土地」を保護してくれる者に対して忠誠を誓う。
「一生懸命」は、「土地」を媒介とせず、直接忠誠を誓うことである。信長が天下布武に邁進できたのは、彼の家臣団が、信長に対する直接の忠誠、つまり「一生懸命」の意識を、他の戦国大名の家臣団よりも持っていたことによる。
信長は、この「一生懸命」の意識作りのため、上述したような施策も含め様々な工夫を実施してきたが、信長の直接支配の強化を最も支えていたのが、信長が育てた官僚集団である。彼らの信長との主従関係は「服従」を旨とし、まさに、「一所懸命」ではなく、「一生懸命」に信長に仕えた集団であった。その母体は、信長の近習団である。
彼らは、小姓衆、馬廻り衆、右筆、同朋衆、奉行衆などと呼ばれ、信長の指示のもと様々な業務をこなす機能集団であった。
他の戦国大名たちも、小姓衆、馬廻り衆など「服従」をベースとした主従関係の結びつきを持った者たちを周りに置いていたが、その人数規模は小さく、信長ほど大規模な近習組織を編成していなかった。
信長の近習団は当時、最も機能化され、組織化された集団であった。信長は出自の関係なく、能力のある者を積極的に採用、政治、経済、軍事、文化など様々な分野で、信長の目、耳、手足となって多くの施策を遂行させた。また、彼らには信長個人に対する忠誠だけではなく、信長の描くビジョンや新しい国家観への忠誠が求められた。この近習集団が信長の天下布武というビジョン実現の先兵となる。
次回はこのシリーズとしての最終回、信長が残した天下統一への道筋について説明したい。
2010 年 3 月 18 日 8:52 PM |
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その中で、信長がいち早く、戦国大名が持つこの支配の脆弱性を克服、天下布武という自らのビジョン実現に向けて家臣団を動かした。
1567年9月に信長は美濃の斎藤氏が居城とする稲葉山城を落城させ、美濃攻略を果す。その翌年8月には、足利義昭を奉じた上洛軍を編成、4万の軍勢を統率し、わずか1カ月あまりで入京を実現させる。そして、その後は四面の敵に臨機応変に信長軍を展開、天下布武への道筋をつける。信長は既にこの時点で、他の戦国大名とは異なった“集権”、あるいはトップ・ダウンという支配関係を家臣団との間に確立していた。
信長は天下布武というビジョン実現のために、家臣団の意識変革に成功したことを意味する。
これは、他の戦国大名にはできなかったことであった。家臣団の頑強な意識の抵抗をものともせず、信長は突き進む。信長は家臣団への支配力を強めるため、家臣団をそれぞれの領地から切り離し、知行地制を導入、代官を置くことによって土地への直轄支配を推し進め、兵農分離を促進した。
また、家臣に領地を褒賞として与えることを極力避けた。これは領地を直接与えることは家臣団の独立性を強め、組織内の分権化を内包するからである。土地を媒介として主従関係が成り立っていた中世社会の中においては、画期的な試みである。
信長は、ある程度、天下統一の事業が軌道に乗ってから、初めて柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益などの主な部将に領地を与えている。しかも、頻繁に家臣間の領地替えを行い、家臣が土地に居つくことを嫌った。
この領地替えという手法は後に秀吉、家康も採用している。また、土地を与える代わりに信長は、家臣の働きに対しては、銭、金棒、茶器などの新しい価値形態で報い、一方、それらの価値形態の供給を独占することにより、家臣団に対する支配力の強化を図った。
信長の土地支配に対する考え方の延長線上には最終的には全国の土地を中央集権的に掌握、中央から任命された官吏によって支配する郡県制的なものを彷彿させる。
信長が本能寺で倒れなければ、天下布武の過程で、毛利、島津、上杉、伊達、長宗我部などの大大名の存在は許さなかったのではないかと想像される。
信長は安土城を築いた際、城内に家臣団の屋敷を造り、常駐させた。家臣ではない同盟者であった徳川家康の屋敷も城内にあったと言われる。家臣団を城下に常駐させることは、家臣団を土地から切り離すだけではなく、その家族を人質化することにより、より家臣団への支配力を強める。
城下に家臣団の家族を住まわせ、人質にする政策を初めに打ち出したのは、朝倉家当主、朝倉故意と言われている。1470年に作られた、その家訓「朝倉敏景十七箇条」において「一乗谷の朝倉館のほかは決して城郭を構えさせてはならない。また高禄の家臣はことごとく一乗谷に引っ越させ、その郷、その村にはただ代官と下役人のみを置け」との記述がある。
信長は、この仕掛けを大規模なシステムとして導入、主な家臣の屋敷を城内に造り、常駐させ、有力家臣団への直接支配を本格的に実施した。
信長が美濃を攻略する前、後に秀吉の軍師となった竹中半兵衛が斎藤龍興の居城である稲葉山城をわずかな手勢で攻略することに成功したことがある。これは、竹中半兵衛の機略によるところも大きいが、実際のところは難攻不落と言われた天下の名城、稲葉山城でさえも常駐していた家臣は少なく、直属の配下のみであったことを示している。
秀吉も同様に、諸大名の屋敷を大坂に建てさせた。家康はこれをより制度化し、参勤交代という仕組みを導入する。いずれにせよ、その目的は有力家臣、大名諸侯に対する直接支配の強化である。それは、単に武力による“強制”や“恐怖”だけでは達成できない。前にも述べたが、“強制”や“武力”だけでは周りの人間の意識がもたない。
本能寺を待たずに、とっくに信長は殺されている。人の意識に働きかける創意工夫を通じてのみ、絶えざる“破壊”と“創造”を繰り返すことができる。信長の天下布武の実現の背景には、人々の意識に働きかける創意工夫の一大プロセスが存在する。
2010 年 3 月 15 日 8:31 PM |
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信長が掲げた天下布武には信長による直接支配、直接統治という意味合いが色濃く含まれている。当時の戦国大名諸侯が一般的に描いていた、あるいは想像していた天下統一とは、自らの手で上洛、足利幕府を再興、幕府の最高実力者として大名諸侯の連合体の上に君臨するといったものであった。
上洛を試みた今川義元、武田信玄なども上洛後の政体を同様に考えていたものと想像される。
信長の描く「天下布武」には大名諸侯の連合体のような政体はまったく含まれていない。信長の統治に対する考え方はすべてトップダウンを起点とする。“集権”を通じて、如何に直接支配の範囲を広げるか、直接統治を強化するかであった。
前述したように戦国大名とは武家領主による一揆と言える。守護からの支配に対抗し、自立的な領国経営を可能にするための組織である。この組織の上に、最も有力な者が戦国大名として君臨する。
信長の父である信秀などは典型的な例である。尾張守護代織田家の一奉行でしかなかった信秀は、この一揆という組織形態を巧みに利用、尾張における「触れ頭」的存在として君臨、戦国大名化していく。
確かに、従来の守護による領国経営のあり方と違い、1つの目的を共有する組織形態である一揆は、構成員の利害関係が一致する限り、強力な組織力を発揮する。多くの戦国大名が強力な軍事組織を確立、領国経営のための優れた民政政策を数多く実施してきたことを見れば、従来の守護大名の比ではない。
しかしながら、戦国大名と家臣団との支配関係は一揆の特徴である契約的要素が色濃く存在するため、大名自身の指導力、統率力という面でその脆弱性は否めなかった。
戦国大名の代表格である武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康、伊達政宗などは、この支配の脆弱性に起因する領国経営の問題に常に苦労している。また、戦国大名間の戦いは往々にして、それぞれの家臣団を形成する国人層の利害と思惑が交差したものを原因としており、戦国大名自身の意志で起すというケースは少なく、家臣団である国人層が戦国大名達を戦いに駆り立てていたというのが実情である。
このような状況の中で、“集権”をすることは自殺行為に等しい。権力基盤の崩壊を意味する。それほど、戦国時代100年を通じて、一揆というしくみを通じて、分権と自立になれた、大名、豪族、国人層、仏教集団、更には家臣からの“集権”に対する拒否反応は並たいていのものではなかった。
次回はではどうやって家臣の意識を変えたのかという部分について語ってみる。
8:23 PM |
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前回の「現世利益」vs「来世利益」で紹介した信長が成し遂げた意識づけに加え、今回は社会そのものを動かした意識改革を紹介する。
15世紀の終わりから16世紀半ば過ぎまでの期間は、日本史上でも最も社会が激しく動いた時代のひとつである。中世社会を規定していた中央集権的性格の色濃い荘園公領制、守護、地頭制の崩壊に伴い、支配の秩序が大きく変質した時代であった。
この時代は「一揆」という社会現象によって特徴づけることができる。戦国時代は下克上と言われるが、まさにその背景には、この「一揆」という新たな支配関係の秩序の出現がある。
農民や都市民だけでなく、武士、僧侶、神官などあらゆる社会層で一揆は結ばれた。彼らは、既存権威に対抗、ある共通の目的をもって組織化され、その構成員間の関係は従来の封建的な上下関係ではなく、契約という考え方を基礎にした自立的集団であった。
戦国大名自体、武家領主たちによる一揆組織であり、荘園制や守護、地頭制などの集権的体制に取って代わる新たな領国支配の在り方であった。
戦国時代の100年間、日本社会は“分権”と“自立”という分散のベクトルが働いていた時代であった。その中から徐々に「一揆」という社会現象の結果である有力な戦国大名や石山本願寺一向宗のような巨大な宗教勢力が出現する。そして、社会のベクトルは分権から統一の方向に転換し始める。
信長はこの“転換”を仕掛けたリーダーである。しかしながら、分権へ向かおうとするベクトルを、より集権の方向に戻し、新たな統一国家を構築するには、一揆という社会的構造を成立たせている支配関係の秩序を根本から変革する必要があった。これは、とてつもない“意識改革”の実現を意味する。
織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。信長が発想した新たな支配秩序の方向性は、その後、後継者である秀吉と徳川家康に引き継がれ、江戸時代約300年という世界史上でも珍しい天下泰平の世を実現させる。
次回は信長が仕掛けた集権の背景事情について説明したい。
2010 年 3 月 12 日 8:10 PM |
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どのようにして長きにわたる一向宗との経済戦争に勝利したのか。それはこの「現世利益」VS「来世利益」を紐解くことが重要だ。
石山本願寺を頂点とする一向宗は各地で守護、大名、国人などの領主層との経済権益争いを絶えず起こしていた。
正面から石山本願寺一向宗一門に対抗できる、あるいは対抗しようとした勢力は信長が台頭するまで存在しなかったと言ってよい。
信長の対石山本願寺一向一揆戦略の基本は、一向一授の念仏を唱えれば極楽往生できるという「来世利益」に対して、「現世利益」を掲げ、それを多くの人々に示すことにあった。すなわち、信長は様々な経済施策を実施し、経済的な豊かさという「現世利益」を見せることで人々の支持を取りつけようとした。
10年以上に及ぶ信長と石山本願寺との戦いは、中世的封建体制を崩す2つの新しいビジョンのぶつかり合いでもあったことが分かる。
信長の石山本願寺に対する最終的な勝利は、「現世利益」の魅力が「来世利益」を凌駕したと言い換えてもよいだろう。信長が石山本願寺を含む仏教勢力との戦いに勝つためには、軍事力以上に、「現世利益」を具体的な形として示すための巨大な経済力が必要だった。信長についていけば、その先に何か豊かなものが現実として与えられるということを強く感じさせなければならないからだ。
他の戦国大名の家臣団とは異なった価値観を持つ集団だった信長軍団とはいえ、中世仏教の絶対的権威であった比叡山を完膚なきまでに焼き払い、伊勢長島、加賀では一向一授数万人の老若男女を大量殺戮することには強い抵抗感があったはずだ。単なる主従関係によって家臣団にこうした行為を強制するのは難しい。
信長に従えば、その先には豊かさが約束されているという信奉にも似た強烈な意識づけがなければ無理だっただろう。
2010 年 3 月 2 日 7:57 PM |
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