信長の破壊の流儀 - 第2回 “強制”と“恐怖”だけでは殺される

しかし、と考えざるを得ない。

恐怖のみによって人を動かせるだろうか。一時的には可能だろう。だが、群雄が割拠する戦国の世に、一代で日本の中心部のほとんどを席巻し、政治・経済・文化のすべてに一大変革をもたらした偉業は、信長単独の力では不可能である。そこには家臣、同盟者、領民、朝廷など数多くの利害関係者(ステークホルダー)の理解が必要だったはずである。

例えば、「兵農分離」と「トップ・ダウンの意思決定」を考えてみよう。信長の独創と言われる「兵農分離」だが、戦国大名なら誰しも、農民と兵士を切り離し、農繁期にも戦える常設軍を創設することは悲願だったはずだ。また、譜代居や領内の有力国人層に諮ることなく、自らの独断によって内政や軍事を実施できれば、大名にとってこれほどありがたいことはない。

ところが、信長以外のどの大名も「兵農分離」や「トップ・ダウンの意思決定」をなし得なかった。戦国時代、富と力の源泉は何より土地であった。兵士たちは自らの土地を守るため、そして、新たな土地を恩賞として得るために戦った。

商業が発達していた尾張にしても、基本は土地本位制であった。そうした中、兵力と土地を切り離す難しさは現代人の想像をはるかに超えている。

信長が単独ですべてを決めるという意思決定方法も、ある意味暴挙とさえ言える。

武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就などの他の戦国大名たちは、譜代層や有力国人層の合議制によって、領国経営を進めてきた。

かつての守護・守護代を下克上に乗じて退けた国人層の頭目格に過ぎない戦国大名には、一般に考えられているほどの専制的な権威はなかったからだ。譜代・有力国層は大名と対等とはいかないが、かなり接近した発言力を有していた。それゆえ、大名といえども、重臣たちの理解を得られなければ、物事を決められなかった。

逆に、彼らの意向を無視し、反発を招くばかりなら、君主の地位を追われ、殺されることすらあった。

コメント

「兵農分離」についていえば、①資金力と、②商品流通の拡大、③農民以外の人口流入、④貨幣経済の一般化がなければ、不可能であったと考えます。

後進地域であった武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就の所領は、自給自足性が強い農民集団で占められ、また、軍事的側面のみを考えていたせいで直線道路や橋の整備がされないため、物流や人の移動が少なかったと思います。

 対する尾張は、長良川などの河川物流の中心地でさらに東海道を物流に利用でき、織田信秀時代(この時代ですら、農民兵主力であったが1~2万人の兵を動員して美濃、三河に何度も攻め込んでいた。)の政情安定から居住人口増(土地から切り離された人口。主に人口が多くかつ戦乱の多かった近畿から東海道経由での流入を想定)、農業生産増、商品流通増大、貨幣経済一般化があり①~④の条件をかなり満たしていたのだと考えます。

 もっとも先進的な地域といえば近畿地方なのですが、足利将軍家や管領家の細川家や三好家の没落に見えるように、戦乱が絶えず、政情が絶えず不安定であり、結果、農業生産低下による人口流出や治安悪化による物流減少があったと考えられます。(封建制の結果、近畿地方では、国人や有力寺社等によって土地の管理が他地方よりも細分化されていたことも理由の一つと思います。)

 信長が近畿地方進出後行った経済政策を見ると、尾張に存在していた常備軍創出が可能となった条件を全領土で再現しようとした意図がかいま見えると思います。

2010 年 2 月 10 日 11:49 PM | 秀里 顕

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