2 月2010

信長の破壊の流儀 - 第8回 仏教勢力との戦いは経済戦争

実は、信長と石山本願寺一向宗との争いは信長が天下布武を唱えるかなり以前から始まっていた。

信長の育った東海一の港町、津島は、一向一揆が盛んであった伊勢長島と川を1つ隔てたところにあった。当時、津島も長島も新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民などの新興勢力が活躍した地域である。

信長は祖父の代から、彼らを巧みに取り込みながら織田家の勢力拡大を図ってきた。信長の組織が他の戦国大名と異質の輝きを持っているのは、これら新しい価値観を持った新興勢力を主体にした集団だったことによる。

木曽川下流域一帯に根を張ってきた川並衆や津島衆など独立性が高かった新興勢力を信長は家臣団に組み入れていった。これらの新興勢力が組織の中核となり、信長が1551年に家督を継いでから1567年に美濃攻略するまでの、いわゆる、離陸(テーク・オフ)期間において、信長の快進撃を支えた。

同地域において勢力を伸ばそうとしていた一向一揆は織田家にとってはその生命線である商業、流通を中心とした経済権益への大きな脅威であった。また、新興勢力の囲い込みという面においても一向一揆とは真っ向からぶつかっていた。

その中で、信長は「宗教」の怖さ、特に「来世利益」を求心力とする死を恐れぬ一向一揆集団の怖さをいやと言うほどに思い知らされた。その原体験が、その後の石山本願寺に対する徹底的な残滅戦略につながっている。

信長と本願寺との戦いはまさに経済戦争である。先に述べたように、石山本願寺は新興勢力を取り込み巨大な経済力を誇っていた。また、各地にある一向宗の末寺は農民に対して農業技術向上のサポートを行うなど精神的な面だけでなく経済的側面での指導的役割を果たしていた。さらに、当時は寺社の周辺は市場(流通)形成の場となっており、特権商人、職人による座の形成に伴い、その許可証を寺社が発行することが一般的であった。

次回はこの戦いを「現世利益」と「来世利益」という視点で見てみる。

信長の破壊の流儀 - 第7回 信長の最大の敵=意識の壁、石山本願寺率いる一向一揆

前回の「岐阜の城下町は『バビロンの雑踏』」に引き続き、今回も信長の最大の敵について説明する。

石山本願寺の率いる一向一揆は信長の最大の敵であったといっても過言ではない。
1580年に和睦が成立するまで信長は石山本願寺と10年間戦い続けた。

信長が行った画期的な革新が政教分離という政治革新と楽市楽座の代表される経済革新である。しかしながら、この2つの革新は本願寺一向衆、比叡山、高野山などの宗教勢力との戦いに勝ち抜いて、初めて実現できた。

宗教勢力に対する勝利なくして、2つの政治、経済革新はなかったと言える。
信長と宗教勢力の戦いは壮絶を極めた。宗教勢力の中で最も強大な組織が石山本願寺を頂点とする一向一揆集団であった。

親鸞を開祖とする浄土真宗は、蓮如によって組織化が図られ、石山本願寺を頂点とする一向宗として畿内、北陸、東海を中心に各地で勢力を拡大させた。中でも強勢を誇ったのが、伊勢長島の一向一揆と加賀、越前の一向一揆である。

特に加賀、越前は「一揆もちの国」と呼ばれ、戦国大名に匹敵する領主権を行使していた。

石山本願寺の急速な成長の背景には、蓮如による一般民衆を対象とした布教活動があった。その「教え」は単純明快である。「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽往生できるというものであった。

度重なる飢饉、戦争によって民衆の生活が疲弊する中、この単純明快な「教え」は多くの民衆の心をつかんだ。これにより、蓮如の率いる浄土真宗は一向宗として急速に民衆の支持を取りつけ、結果として初めて仏教が民衆レベルに広まることになる。

一方、下克上の風潮の中で、中世的枠組みからはずれた新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民、地侍、地下入居など商業、流通、土地の開墾などを通して独自の経済力を築きつつあった新興勢力にも石山本願寺は着目した。

従来の封建的支配に服さないこの新興階級を巧みにその組織拡大のために取り込んだ。

石山本願寺を頂点とする一向一揆は、当時最大の政治勢力であると同時に最大の経済的影響力を誇っていた。信長が天下布武を実現するためには、どうしても石山本願寺の持つ巨大な政治力と経済力を粉砕する必要があった。

次回はこの石山本願寺の持つ経済力の背景について説明する。

信長の破壊の流儀 - 第6回 岐阜の城下町は「バビロンの雑踏」

フロイスの「日本史」は岐阜城下町の様子をこのように伝えている。

「取引や用務で往来するおびただしい人々で道はにぎわい、一歩、店に入れば、商いと雑踏で家の中では自分の声が聞こえぬほどだった。昼夜、ある者は賭け事をし、飲食、売買、また荷造りに忙しく立ち働いているのだ。人口は八千人ないし一万人で、バビロンの雑踏を思わせた」

宣教師ルイス・フロイスによると岐阜の城下町はさながら「バビロンの雑踏」の様相を呈していたという。訪れた人々は楽市楽座のもたらす豊かさを実感していた。楽市楽座は今川義元、斎藤道三、六角承禎などがすでに部分的に実施していた領国経済振興策である。

しかしながら、本格的に導入したのは信長である。信長は商業、通商から上がる富の掌握という視点から楽市楽座に注目し、永禄10(1567)年に岐阜城下加納市場を楽市とした。更に、翌年には、楽座令を発布。商取引における既得権益を排し、自由に誰でもが商業や手工業に従事できるようにした。天正5(1577)年には、安土城下において楽市楽座を実施する。また、永禄7(1568)年、信長は嶺国内の開所をすべて廃止する。

それまで、たとえば伊勢の桑名と日永との約4キロの間には40もの関所があった。また、大坂と京都を結ぶ淀川の問には約400ヶ所の関所が設けられていた。これらの従来の経済活動のしくみの“破壊”は、新たな経済活動のしくみの“革新”を生む一方で、既得権益を持つ多くの商人や石山本願寺、比叡山延暦寺など座の特権を付与していた宗教勢力の反発を招くこととなる。とくに、信長と宗教勢力との戦いは壮絶を究める。本願寺や延暦寺などの仏教勢力との対立は表向き政教分離のための戦いであるが、実態は、この経済権益を争う経済戦争であった。

信長の最大の敵はこの、既得権益を死守しようとする宗教勢力の意識の壁であったと言える。

信長の破壊の流儀 - 第5回 「土地本位制」から「銭本位制」へ

信長は軍事力で天下布武を行ったのではない、信長は経済力によって天下を取ろうとした。

御旗のデザインに永楽銭を使ったことが象徴している。永楽銭とは、当時、日本で最も信頼され、普及していた中国の明の貨幣である。まさに、「銭で天下を取る」という信長の意志表示である。

信長は経済力をテコに天下統一の道筋を作ったとも言える。

信長は東海有数の商業港の津島にあった勝幡城で幼少を過ごした。信忠、信雄を生んだ側室、吉乃の生家で、灰、油の商人、馬借である生駒氏との緊密な関係などが信長の経済感覚を育てる。経済を創意工夫することによって土地に替わる「銭」を大量に創出し、他の戦国大名とは桁違いの莫大な資金力をもって組織革新、技術革新、政治革新を矢継ぎ早に実施、天下布武に邁進した。その原資創造をささえたのが信長の経済革新である。

その中心は「土地本位制」から「銭本位制」への移行を可能にした信長の貨幣政策である。永禄12(1569)年、撰鏡令を大坂、京都、奈良で発布、永楽銭を基準として他の銭との交換比率を決め、これを強制することによって永楽銭のような精銭のみならず、悪銭の流通をも増す政策をとった。また、同時に便乗値上げを禁止する物価政策も実施し、更に米を代替貨幣にすることを禁じ、米本位制からの脱却もはかった。

金銀銅の3貨制も導入した。それぞれの交換比率を決め、実質的に金銀の価値を銅銭こ対して切り下げるとともに、糸、薬、茶碗、鍛子などの大量購入には金銀の使用を命じ、金銀の貨幣としての普及を促進した。これらの貨幣政策によって・当時の主要な価値形態であった土地に対して貨幣(銭)の価値を相対的に上げる効果があった。

「銭」の「土地」に対する相対価値が上がることは、すなわち圧倒的な「銭」の調達力を持つ信長の原資拡大を意味する。他の戦国大名が「土地」を勢力拡大のための原資としていたのに対して、信長は「銭」という幾何級数的に拡大が可能な原資を成長力のベースとした。

天文18(1549)年、信長は16歳の時に近江の国友村に500挺の鉄砲を注文する。その時の資金力の大きさは4200人の軍団を一年間養える資金に相当する。織田家はすでにその当時から相当の貨幣力を蓄えていたことになる。

信長の破壊の流儀 - 第4回 信長の破壊と革新

織田信長は天文20(1551)年に織田家の家督を相続、天正10(1582)年に本能寺の変で倒れるまでの31年間という短期間に急激な成長を成し遂げている。

それを端的に表すのが信長が支配した地域の石高である。

家督を継いだ時期の信長の領地の石高はせいぜい6万石程度の規模であったと見られる。それが本能寺の変の時期にはおよそ700万石程度までに拡大、116倍もの急成長をわずか31年間で実現している。これは石高だけで試算した成長性だが、貨幣資産や兵員動員能力などの他の指標で多面的に見れば、日本史上、空前絶後の驚異的な成長のダイナミズムである。

信長の急成長に比べて、上杉、武田、毛利、北条などの他の有力戦国大名の石高は、50万石から200万石の間を上下して推移するレベルに止まっている。信長と他の戦国大名との間では成長の次元が明らかに異なっている。

だとすれば当然ながら、信長は他の大名とは異なる成長のための創意工夫や仕組みを持っていたはずである。それがなければ、他の有力大名の成長の限界点である200万石を超えたどこかで、織田家はその急成長による様々な反動や副作用に耐えられず、組織の自壊を起こしていたはずである。

では、信長はどのようにして、この急成長を可能にしたのか。それは、信長が力を注いできた「4つの革新」にある。すなわち、
1.経済革新
2.技術革新
3.組織(経営)革新
4.政治革新である。

“革新”とは“破壊”を伴う。“破壊”を拒む人の意識が壁となる。権益の組み替えにかかわる革新はとくに人の意識の反発を生む。その主なものをここで幾つか取り上げる。

信長の破壊の流儀 - 第3回 信長の“命がけの工夫”

そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえども決して恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。

美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。

だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識改革がなければならない。信長の理想とするものに、家臣の意識をぐっと引き寄せる工夫がなければならない。間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。

父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面を敵に囲まれた状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。

1つ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はいかにリーダーとして人の意識の壁と戦い、天下布武というビジョンの実現に邁進できたのか。ここで考察を加えたい。

信長の破壊の流儀 - 第2回 “強制”と“恐怖”だけでは殺される

しかし、と考えざるを得ない。

恐怖のみによって人を動かせるだろうか。一時的には可能だろう。だが、群雄が割拠する戦国の世に、一代で日本の中心部のほとんどを席巻し、政治・経済・文化のすべてに一大変革をもたらした偉業は、信長単独の力では不可能である。そこには家臣、同盟者、領民、朝廷など数多くの利害関係者(ステークホルダー)の理解が必要だったはずである。

例えば、「兵農分離」と「トップ・ダウンの意思決定」を考えてみよう。信長の独創と言われる「兵農分離」だが、戦国大名なら誰しも、農民と兵士を切り離し、農繁期にも戦える常設軍を創設することは悲願だったはずだ。また、譜代居や領内の有力国人層に諮ることなく、自らの独断によって内政や軍事を実施できれば、大名にとってこれほどありがたいことはない。

ところが、信長以外のどの大名も「兵農分離」や「トップ・ダウンの意思決定」をなし得なかった。戦国時代、富と力の源泉は何より土地であった。兵士たちは自らの土地を守るため、そして、新たな土地を恩賞として得るために戦った。

商業が発達していた尾張にしても、基本は土地本位制であった。そうした中、兵力と土地を切り離す難しさは現代人の想像をはるかに超えている。

信長が単独ですべてを決めるという意思決定方法も、ある意味暴挙とさえ言える。

武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就などの他の戦国大名たちは、譜代層や有力国人層の合議制によって、領国経営を進めてきた。

かつての守護・守護代を下克上に乗じて退けた国人層の頭目格に過ぎない戦国大名には、一般に考えられているほどの専制的な権威はなかったからだ。譜代・有力国層は大名と対等とはいかないが、かなり接近した発言力を有していた。それゆえ、大名といえども、重臣たちの理解を得られなければ、物事を決められなかった。

逆に、彼らの意向を無視し、反発を招くばかりなら、君主の地位を追われ、殺されることすらあった。

信長の破壊の流儀 - 第1回「信長ぎらい」

作家、藤沢周平は「信長ぎらい」と題したエッセイにこう記す。
「嫌いになった理由はたくさんあるけれども、それをいちいち書く必要はなく、信長が行った殺戮ひとつをあげれば足りるように思う」

山中の堂塔伽藍をことごとく焼き払い、僧俗3000~4000人を虐殺した比叡山の焼き討ちや、男女2万人を焼き殺した長島一向一揆討伐など、織田信長は日本史上類例のない大量殺戮を行っている。こうした残虐な殺戮行為ゆえに、信長には熱心なフアンとともに、少なからぬ「信長ぎらい」がいるのも確かである。

信長の大量殺動行為については、稿を改めて考察するとして、「信長好き」も「信長ぎらい」も、信長を独断的なリーダーと見る点では一致する。桶狭間の戦いに見る果敢な行動力、長篠の戦いや兵農分離、楽市楽座に見る独創性、将軍廃位や蘭音待切り取りなどが象徴する専制性。強大な恐怖と畏敬によって有無も言わさず周囲を従わせる専制君主というのが、現代日本人が持つ信長像の最大公約数だろう。

「破壊者の流儀」~不確かな社会を生き抜く“したたかさ”を学ぶ~(アスキー出版) 2月10日に発売開始

破壊者の流儀カバー

昨年は「オバマ現象のカラクリ」(アスキー出版)を出版し、オバマ現象を素材に説得のコミュニケーションから共感のコミュニケーションへのパラダイム・シフトについて書いた(オバマ現象のカラクリについての記事)。今回の「破壊者の流儀」では、“信長の茶”ということをテーマにして、“立ち位置力”について考えてみた。

「お茶と立ち位置力?」不思議に思われるかもしれないが、茶道のプロセスの中に「立ち位置をつくる」ために役立つ“秘密”が隠されていると確信している。それを紐解いていくことが今回の本の趣旨である。そこには“したたかな”立ち位置をつくるための戦略コミュニケーションの発想の萌芽がいっぱい散りばめられている。この茶道のプロセスを左脳だけでなく、右脳で経験することによって戦略コミュニケーションの原理・原則が見えてくる。

これからは、個人も、リーダーも、企業も、国も、“したたかな”立ち位置をつくることが厳しく求められてくる。

この本の執筆にあたっては、小泉純一郎氏、孫正義氏との御縁を頂き、“信長”についていろいろと直接話をするための茶会を実施することができた。

織田信長は中世という既存の体制を破壊、新たな時代の枠組みを創造したリーダーである。“破壊”と“創造”を繰り返し、新たな世界の実現を目指した織田信長は、革新のための“破壊者”と位置付けることができる。孫氏と小泉氏は現代の信長を彷彿させる。古い価値を“破壊”する、そして新たな価値を“創造する”。この“破壊者の流儀”を信長の茶の中に、現代の二人の信長とともに、語れたことは大変に貴重な経験であった。

今回の本のもう一つの目的は、信長と戦略コミュニケーションのかかわりを考えてみたかったことである。個人的にも信長が好きであるが、信長に魅かれるのは、彼が軍事や経済の天才だからということだけではなく、彼がコミュニケーションの天才だからである。

一見、信長とコミュニケーションとは結びつかないように思われるかもしれないが、 信長の凄さは、49年という短期間で日本史上もっとも多くの人々の意識を変えたことにある。新たなものを創ろうとする“破壊者”にとって最大の“敵”は変化を嫌う人間の意識である。中世から近世へ、群雄割拠から天下統一へと大きな変化の実現にはとてつもない変化を嫌う多くの人々の意識の壁が立ちはだかる。

信長は見事にこれら意識の壁を完膚無きまでに“破壊”、新たな方向性に人々の意識を誘った。信長というと「天下布武」という言葉が有名だが、とかくに信長は武力によって天下を平定しようとしたというイメージがある。また、ともすれば独裁者や暴君というイメージが信長にはつきまとう。しかしながら、武力や恐怖だけでは人の意識は変わらない。

天下統一まであと一歩に迫るまでの変化を軍事力や恐怖のみによって束ねることは不可能である。もしそうであれば、信長はとっくにもっと早い時期に殺されている。戦国時代とはそういう時代である。信長はコミュニケーションという“人の意識を変え、人を動かす”チカラを総動員することで親族、家臣、同盟者、領民、商人、職人、公家、朝廷など数多くの利害関係者、いわゆるステークホルダーを、そして世論を信長の描く新たな世界の実現のために動かしたのである。

ここにコミュニケーションの天才としての信長の真骨頂がある。次回のブログからは、信長がどのようにして“変化を嫌う意識”と戦ったかを書き綴っていきたい。

*「戦略コミュニケーション」はフライシュマンヒラードジャパンの登録商標です