7 月2009

麻生首相の2つの演説(2)“いよいよ7.21解散”

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解散記者会見での麻生演説を検証する。

背景は”赤い”カーテンである。4年前の郵政解散での小泉総理の記者会見を意識している。また、今回の選挙を「安心生活実現選挙」とわざわざ命名する。これも4年前に小泉総理が「今回は郵政民営化選挙」と言い切った姿を彷彿させる。

小泉流演説を意識することは自由だが、”意識している”ということが国民に伝わってしまうことはリーダーとしてのメッセージ性を考えるとマイナスである。

リーダーのメッセージ性を高める重要な要素の一つが独自性である。

”意識している”とは”真似ている”ということである。それ自体がリーダーシップ欠如という印象を与えてしまう。”2番煎じ”には人々は共感しない。郵政解散記者会見で小泉さんが示したあの強烈なメッセージ性は、その独自性にある。今まで誰もがやったことのないことを小泉総理はやり遂げた。

ここに人々の意識を動かすカラクリの一つがある。独自性=サプライズとも言える。小泉流コミュニケーションの本質はまさに”サプライズ”である。

麻生総理が小泉流を意識していたにも関わらず、演説の内容は、小泉演説とは”真逆”であった。
麻生演説の3要素は謝罪、実績、批判から成る。一方、小泉演説の3要素は「謝罪ではなく、国民への問いかけ」、「実績ではなく、これから何をするか(郵政民営化)」、「民主党への批判ではなく、国民の敵(抵抗勢力)と戦う意志」である。

選挙コミュニケーションの基本は”過去に対する説明”ではなく、”将来に対する意志”である。謝罪も、実績も、批判も、基本的には”過去完了”である。国民の気持ちをとらえることはできない。

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コミュニケーションを技術する!「コミュニケーション技術評価会」

7月11日に第12回目のフライシュマン・ヒラード・ジャパン、コミュニケーション技術評価会を開催した。

この会はあくまで社内イベントで年に2回、7月と12月に土曜日を丸1日使って開催する。日本の全スタッフと一部有識者を交えて行われる。内容は成功例、失敗例も含め、我々が行ってきたサービスのケーススタデイーを検証する”場”である。

あえて”技術”という表現を使っているのはコミュニケーションを属人的なスキルとして漠然と捉えるのではなく、ひとつの体系化されたものとして認識することの重要性を示したかったからである。

コミュニケーションは力である。

力である限り、作用・反作用があり、そこには歴然とした原理・原則がある。特に戦略コミュニケーション・コンサルテイングの仕事は”組織のコミュニケーション”を扱う。コミュニケーション力学をどのように組織の事業戦略実現に活用するかが使命である。

もともと「技術評価会」という言葉はホンダ用語である。基礎研究によって生み出された様々な基礎技術の内、どれを量産モデルに取り入れるかを判断する場として「技術評価会」がある。

コミュニケーションの世界も日々進化している。デジタルの世界が広がる中で、様々なコミュニケーション技術が生まれている。我々が今知っているコミュニケーションの世界は”氷山の一角”なのである。

21世紀最大の課題が”人の意識の壁”を越えることである。

変化がますます加速化する中で、人の意識も同じスピードで変化させていくことが必要となる。特に組織の場合、その組織を支えている多くのステークホルダー(社員、顧客、株主など)の意識を事業環境の変化に合わせて変えていくことが組織生存にとって必要不可欠になっている。

ところが、多様性の流れが人の意識のスピーデイーな変化を阻止してくる。意識が多様になればなるほど、その意識をひとつのまとめることがますます難しくなる。かつては日本の企業は終身雇用というしくみによって、社員の帰属意識を担保していた。

しかし、今は意識の多様性によって帰属意識の希薄化がどんどん進んでいる。社員の帰属意識を高め、”やる気”を出す、新たなコミュニケーション技術が必要となる。

コミュニケーション技術の進化の最近の代表例が”オバマ現象”である。

多様化したアメリカ社会をどうやって一つにするのか。様々な人種、宗教、価値観が混在化するアメリカの人々の意識をどうやって一つにするのか。多様性からくる”分断”、分裂”、”対立”の中で、”立ち位置”を失ったアメリカ人の意識をどうやって原点に戻し元気づけるのか。

これらの課題にオバマは”共感”をつくる事によって、アメリカ人の気持ちを一つにする。元気づける。これはオバマによる新たなコミュニケーション技術の開発である。

それは様々な試行錯誤の中から生まれた。ネットという新たな可能性によって生まれた。従来の欧米的な説得のコミュニケーションから共感のコミュニケーションという新たなコミュニケーションの地平の発見でもある。

ある意味、コミュニケーション技術のパラダイム・シフトが起こったといえる。ニュートン物理学からアインシュタインの相対性理論へと物理学のパラダイムが変わったのと似ている。

コミュニケーションという事象はあまりにも日常的であるために意識をしないことが多い。意識せざるを得ない場面に直面しても、個人のセンスの問題として属人的に片づけられることが多い。また、コミュニケーションとは個人のセンスやスキルの問題であるという認識が強い。

しかしながら、コミュニケーションとは人を動かす力学であり、そこには原理原則が息づいている。また、コミュニケーションは個人だけの問題ではなない。

組織のコミュニケーション力が今求められている。

コミュニケーション技術評価会をスタートしてから早7年になる。これからますますコミュニケーションを技術化することが求められてきていることを日々実感する。

(下記は20097月の技術評価会の講演のビデオです。今回のテーマである「独創」について考えてもらうために、私の米国世論への働きかけを中心に行った本田技研工業時代の活動(無謀なデトロイト事務所開設、米国からの輸出シーンの衛星中継、本田宗一郎氏の自動車殿堂入り後押し等)を振り返っています。)



麻生首相の2つの演説(1)”反省と謝罪”

7月21日、麻生首相は2つの演説を行った。ひとつは、自民党両院議員懇談会で、もう一つは解散記者会見においてである。

2つの演説ともまず”反省と謝罪”から始まる。
しかしながら戦略コミュニケーションの視点から見るとその評価は分かれる。

麻生首相が思わず涙ぐんだ自民党両院議員懇談会でのスピーチの評価は基本的に””である。このスピーチの相手は自民党の反麻生派の議員である。

すでに両議員総会ではなく両議員懇談会に決まった段階で、反麻生派にとっては、”麻生おろし”は不可能になってしまった。選挙日程は迫っている中、あとは、どうやって振り上げてしまった拳を降ろすタイミングをはかるか、そして自民党からの公認を受けるかが反麻生派議員の緊急課題であった。

麻生総理の反省と謝罪、そして”涙”は拳を降ろす上での”渡りに船”であった。その結果、「今までの反麻生騒動は何だったのか」と思わせるほどに全自民党議員が一致団結を表明、反麻生派の急先鋒であった中川元幹事長までもが麻生総理と握手するといったシーンもあり、”デキレース”ではないかと疑ってしまうぐらい30分ほどで無事閉会する。

この意味では、麻生総理の演説の効果はあったと言える。東国原知事が「総裁候補に!」と言って世論の“ひんしゅく”を買い、二進も三進も行かなくなった状況に追い込まれていた時に、ビートたけしが東国原知事に諫言する形で知事の引き際を演出したのと似ている。

コミュニケーションには基本的に”守り”のコミュニケーションと”攻め”のコミュニケーションとがある。通常、クライシスなどの場合は”守り”のコミュニケーションの原理・原則に則ってメッセージを発信する。
今回の両議員懇談会の場合、麻生自民党執行部にとっては一種のクライシスである。前にこのブログで小沢一郎民主党代表の西松建設献金疑惑に対する基本対応はクライシス・コミュニケーションである旨を書いた。

クライシス・コミュニケーションの基本は、まず被害者への謝罪である。

次に被害者の抱えている課題を解決するための決意と行動を示すことである。クライシスには必ず”被害者”が存在する。今回のケースの“被害者”は麻生総理のメッセージの”ブレ”によって、選挙で逆風を受け、危機感を募らせている反麻生派の議員の人々である。麻生演説は、反麻生派に謝罪の意を表明、彼らの課題である“どう引き際を演出するか”に対して、その大義名分、“きっかけ”を提供した。

この意味では“守り”のコミュニケーションの原理・原則に則っている。よって評価は“”である。

問題は、懇談会を公開にしたことである。

「二頭追う者は、一頭をも得ず」という格言があるように、戦略コミュニケーションでは、ふたつ以上の相手を追うのは基本的に“ご法度”である、“NG”である。
相手を必ずひとつに絞り込むことである。

公開することによって、麻生総理はふたつの異なる人々、つまり反麻生議員とテレビを見ている有権者、を相手にすることになる。反麻生議員に対しては、そこには前述したように“クライシス”の構造があるから、“守り”のコミュニケーションで対応することが適切であるが、有権者に対しては、“否”である。

選挙コミュニケーションの本質は“攻め”のコミュニケーションである。国民の課題が何であるかを示し、争点を明らかにし、それを解決する政策を提示し、そしてなぜ自分でなければその政策を実現できないかを“主張”する“攻め”のコミュニケーションである。

有権者は“謝罪や反省”を求めているわけではなく、今、国民の目の前にある課題をどのような“覚悟”で解決してくれるのかを聞きたがっている。

麻生総理の“涙”は“覚悟”からきた涙ではない。
党が一致団結したシーンを見たことによる“感慨”からきた涙である。

これでは国民の共感を得るには弱すぎる。懇談会を公開することがコミュニケーション上効果があるという判断なのかもしれないが、それは間違っている

反麻生派議員には“守り”のコミュニケーション、国民には“攻め”のコミュニケーションと別々に打つべきであったのを、公開にしてしまったため、国民に対して“守り”のコミュニケーションで対応してしまった。謝罪と反省、感慨の涙からは次の4年間日本を率いるリーダーとしての“麻生首相”の姿は、国民にはイメージできない。(続きはこちら



懇談会全体の様子(自民党 橋本岳氏のブログ)



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小泉劇場VS東国原シアター どっちが偉い? コミュニケーションリスクの視点から

都議選の結果は、自民惨敗であった。敗因はいろいろ取り沙汰されているが、東国原知事が”戦犯”扱いを受けている。その結果、古賀自民選対委員長が”東国原知事にアプローチしたのは「浅はかであった」と自壊、辞任する事態となる。一体、世間を騒がした”東国原騒動”は何であったのか。

都議選以前の話であるが、ある政治ジャーナリストに尋ねられたことがある。

古賀さんが東国原知事にアプローチして以来、自民党に関するテレビ露出が急激に増え、自民党がテレビ・ジャックしているような様相を呈している。2005年の郵政選挙の際の小泉総理が仕掛けた”刺客騒動”の時のテレビ露出を彷彿させる。これは民主党にとって不利ではないか。もっと民主党もテレビ露出を増やす努力をするべきでは、戦略コミュニケーションの視点からはどう評価するのか

確かに、”東国原騒動”によって自民はテレビ・ジャックに成功した。自民の露出が増えたという意味では”小泉刺客騒動”と状況は同じである。

しかしながら、今回の”東国原騒動”と”小泉刺客騒動”を比べると根本的な”違い”がある。それは露出の“意図”である。小泉刺客騒動には明確な”意図”が存在した。争点を設定するという小泉純一郎の”意図”である。選挙では、先に争点を設定した方が勝つ。

2005年の郵政解散の前、国民の関心はあくまで年金、医療、子育てにあった。郵政民営化に対する国民の関心は、これらの問題に比較すると低かった。民主党は、「もっと大事なことがある」という基本メッセージに基づいて、争点を”郵政民営化 or 年金・子育て”で設定していた。事実すべての調査は、国民が年金・子育てに最も関心を持っているという結果をはじき出していた。
小泉総理にとっては、いかに争点を”郵政民営化Yes or No”に持ち込めるかが勝負であった。彼は解散記者会見で”郵政民営化の是非を国民に直接問いたい”と名言を吐き、今回の選挙は”郵政選挙”であると明言、争点設定の先取りを企む。そして間髪を入れずに、郵政民営化反対の造反議員に対して”刺客”を送り込む。これによって小泉総理はテレビ・ジャックに成功する。すべての報道番組やワイド・ショーが

”自民の造反議員vs自民の刺客”

という構図を追っかけ、民主党の露出がまったく薄れてしまう。刺客報道が加熱すれば、するほど

”郵政民営化Yes or No”

という争点が浸透していく。民主党がいくら郵政民営化よりも年金・子育てと主張しても、”郵政民営化Yes or No”の構図の中で押し流されてしまう。これが小泉総理の”意図”である。

この視点から、今回の”東国原騒動”を見ると、そこにどのような”意図”があるのか。「露出を増やせば、自民への支持も上がる」といった趣旨を自民党の古賀選対委員長が述べたとのことだが、その言葉を借りれば、どうも自民の”意図”とは露出を増やし、自民への支持を上げるということであるらしい。これは自民の露出増=自民の支持アップと言った構図を想定している。

しかしながら、露出を上げるだけで、支持率が上がるなどと思うこと自体がコミュニケーション力学の原理原則を理解していないし、その恐ろしさを全く解していない。我々が生きている現代社会は露出が増えれば増える程にリスクが増える時代なのである。
言い換えれば、露出を増やせば、増やすほどより多くの人々が“勘違い”や“曲解”をするという世界なのである。重要なのは露出を増やすことではない。

露出によってどのようなメッセージが国民に伝わるかが肝心なのである。

意図したメッセージが伝わるように露出を増やすと同時に、それをコントロールすることがポイントなのである。小泉総理の”凄さ”は、”刺客騒動”によって自民の露出を増やすだけではなく、テレビを通じて”郵政民営化Yes or No”が争点であるというメッセージを国民に浸透させたことである。露出をしっかりとコントロールしているのである。そこには、強かな意図がある。

今回、自民党は”東国原騒動”によって自民の露出を増やすことには成功したが、その露出をコントロールする強かな意図が欠落している。結局、国民に伝わったメッセージは”形振り構わず、有名人を使って政権維持をはかりたい”というもので、政権維持のためには藁をも掴もうとする自民党の姿をさらけ出した格好になってしまった。これが自民党に対する支持率の低下につながっている。

では、もう一方の騒動の主役である東国原知事には“意図”はあったのか。確かに知事の露出が飛躍的に上がったのは事実である。とくに、地方分権というテーマの中で大阪府の橋下知事の存在感が日々増している中で、地方分権の旗頭としての東国原知事の存在を再び上げることには功を奏した。

もしこれが知事の“意図”であるならば、「総理候補にせよ」は失言である。この発言は露出をあげる効果はあったが、宮崎県民からの反発を招き、宮崎県知事に初当選して以来、知事が築いてきた全国レベルの“レピュテーション(reputation)”、つまり“評判”を大いに傷つける結果となった。東国原知事も露出のコントロールに失敗している。「コミュニケーションとは力だ」という認識がない。力である限り、それを使えば、必ずその反動が生じる。

自民党も東国原知事もコミュニケーションの力学を“甘く”見ている。コミュニケーション力学の視点からは「露出を増やすことは危険である」と認識すべきである。ましてや、「明確な意図がない露出は自殺行為だ」と思った方がよい。露出によって、どのようなメッセージを伝えたいのか、それが伝わったときにどのような効果が生じ、どのような反動は起こるのかを十分計算、吟味した上で露出を“仕掛ける”発想が戦略コミュニケーションの発想である。